おいしさの箱 ~伝説の唐揚げを求めて~
小学校に通っていた頃、近所に一個50円で骨付き唐揚げを売っていたお店がありました。僕はそこの唐揚げが大好きで、少ない所持金の中から、おやつ替わりにときどき買って食べていたことを今でも覚えています。
子供の頃に食べたもの
その頃の唐揚げの味が忘れられないためか、現在でも新しいスーパーの惣菜コーナーに行くと、目が勝手に唐揚げをサーチするようになり、唐揚げの形状や揚げ方から、これは買うべき唐揚げなのか思案していることがよくあります。
(お店の方へ、惣菜コーナーを行ったり来たりしているのは買うべきか悩んでいるためで、決して怪しい行動のためではありません。)
残念ながら未だに、あの頃食べた唐揚げの味に出会ってないのですが、思い直してみると、もしかしたら覚えているのはあの唐揚げの味ではなく、美味しかったという記憶の方なのかもしれません。
おいしさの箱
小学生の味のデータベースは貧弱です。食べた物のストックは少なく、舌も肥えていないためです。
小学生の味の感覚は、まるで、自分の体の中に「おいしさの箱」と呼ばれる箱が3つくらいあって、自分が食べたものの記憶をそれぞれ、「美味しい」「普通」「まずい」のどれかの箱に格納している行為に思えてきます。
子供の頃の「おいしさの箱」では、オムライスが出されれば「美味しい」の箱にストックし、ラーメンが出されれば、これも「美味しい」の箱にストック。家で出されたサンマの塩焼きは「普通」の箱にストックし、レバニラのレバーは「まずい」の中にストックする。
人は、大人へと成長するにしたがい、舌も肥えて「おいしさの箱」も4個、5個、10個と増えていきます。今ではサンマの塩焼きなんかは、上位の箱に入れるでしょう。そうやって大人になるにつれ、味の再配置が行われていくのです。
逆に子供の頃に納豆を「まずい」の中にストックし、大人になって箱のバリエーションが増えたにも関わらず、その記憶に引きずられて味の再配置がなされないと、納豆は大人になっても、いつまでも「まずい」箱の中にあります。大人の今であれば、もしかしたら「いぶし銀」という箱の中に入るかもしれないのに。
伝説の唐揚げを求めて
僕の探している唐揚げも、もしかしたら、実際には近い味に出くわしているのかもしれません。しかし、子供の頃に入れた「美味しい」という箱の中から記憶を取り出すことができずに、頭の中で味の記憶のミスマッチを起こしているだけなのかも。
それでも僕は、あの頃食べた美味しかった、伝説の唐揚げを求めてさまよっている。
旅先の店、新聞の隅、明け方の街、踏切あたり、
こんなとこにあるはずもないのに。
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